修善寺中学校教頭 中野 勇
(狩野川台風当時)
あの夜のことになると、体験者は昨日のことのように雄弁になる。
流木にのって(当時修中2年U君手記)
メリメリというにぶい音を後ろに聞きながら石倉にとび移った。と同時に住みなれた家が濁流の中へ流れる。隣の家も前の家も数秒とたたないうちに流れた。全く夢を見ているようだ。石倉がゆれ出した。下から土台石が抜きとられるように崩れ落ちた。弟の手をひいて屋根の下から流れてきた屋根にとび乗った。
暗やみをすかして山が見える。その山へ着けるかと思っていると、横から流れ込む水のため本流に押し流された。乗っていた屋根は流木が当って二つに割れてしまった。またほかの屋根にとび移る。三メートル以上もあろうか、大波がゴオーゴオーと鳴っている。橋が見えると思う間に橋の中へ吸い込まれた。水中で木材にはさまれ身動きできない。ギューギューしめつけられる。父母や弟のことが頭に浮かぶ。もうだめだと思って目をつぶったがどうしても死ねなかった。呼吸をして泥水を飲むだけだった。苦しさに身をもがくとポカッと体が浮き上がった。まるで天国に行ったようだった。
濁流の中で小学校の受持の先生と一緒になり、二人は何度も流木から降り落されながら流れていった。次第にうすれる気力をはげましながら。
命拾い(当時修中W教諭手記)
最も恐ろしかったのは千歳橋だった。橋げたに濁流がぶつかり物すごい勢いで砕け散っていた。私はこれにふれたらもうだめだと思った。乗っていたトタン屋根に立ち上がり水の中に飛び込んだ。
最も苦しかったのは日守という部落へ来た時で、ここには未だ流されない数本の樹木があり、この木に流木が突っかかり山のようであった。私のつかまった流木もここで止まった。同時に頭の上に何本も何本もの流木が重なり、これをくぐり抜けるのに死にもの狂いであった。
ひといきつき、ちょうど流土をこねたようなドロドロで、それをくぐり抜けたときの気持の悪さは言いようのないものであった。後に聞いたことだが、私はそれから急に仁田の方に流され、一度土手を見つけて泳ぎつこうとしたがだめだった。次の土手に懐中電灯の往き来する人の姿があり、私はまたそれに向って進んだ。この機会を逃したらと必死であった。
「がんばれよー」「手をはなすな」 声に励まされて私は土手に引きずりあげられた。私の腰は力尽き、土手につぶれてしまった。
その時、私の片肺は泥水で機能停止、残りの片方がわずかに酸素を吸収しているだけであった。脈はくはほどなく危険状態であった。人工呼吸や酸素吸入を六時間も続け、ようやく命を取りとめることができたのだった。
「流木にのって」は当時修善寺中学校二年生U君の生々しい被災の記録であり、「命拾い」は同校W教諭で、熊坂地先に住居を新築したばかりで流失、九死に一生を得た体験記録である。
当時、私は修善寺中学校の教頭であった。 その日は朝から風雨はげしく、情報は予断を許さない状況であり数日前の二十一号台風の経験にも省みて、生徒の安全を期するため学校は校長の指示を受け、急きょ臨時休校を宣し、生徒全員を午前十一時下校帰宅せしめ職員は災害防止のため、直ちに校舎内外を巡視戸締まり等を厳にし対策に万全を期し、風雨のやや収まりかけたと見えた夕刻、交通機関運転打切り直前に、宿直員山本教諭、遠藤用務員家族にあとを託して家路についたのであった。
しかし、この数時間後南北両校舎と静かなたたずまいを見せていた学舎が一瞬にして流失、グランドのバスケットボール一本を残してその姿を没しようとは誰が予測することができたであろうか。最後まで重要書類や備品を階上に運びあげながら「もう水が膝まできました。直ぐに来て下さい」の電話連絡を最後に山本教諭と遠藤用務員家族は濁流に呑まれ学校と運命を共にしたのである。
台風二十二号は九月二十一日南方洋上で熱帯性低気圧から台風に成長、進路を西へとりながら次第に発達して北上、戦後最低と言われる八七七ミリバールの気圧を示しながら、最大風速七五メートルを記録し、遂に紀伊半島から伊豆半島を直撃、狩野川災害史に例を見ない死傷者二五〇〇名に及ぶ未曽有の被害をのこす大惨事となったのである。
私どもは、一面の河原と化した学校流失跡に立ち、只ぼう然なすところを知らなかったのであるが、生徒の消息職員の動静を把握することが第一と考え、特に山本教諭と遠藤用務員の安否捜索隊を組織し、近隣の教員の住宅を一部借り受けこれを臨時職員室として事後処理に忙殺されたのである。
しかしながら、連日の捜索にも拘わらず、翌日遠藤用務員の家族二人の遺体が発見収容された他の方は誠に空しく後日死亡の確認があり、心より御冥福をお祈り申し上げているところである。
被災の人びとは家財を失い家族をなくし、毎日熊坂地先の河原で犠牲者を荼毘に附する臨時斎場の煙を見ながら自失し、立ちあがる気力を失いつつあった。
この時、私共は一日も早く学校を再開し本来の業務を開始することが人びとの心に復興の灯をともすものであることに気付き、借り受けた隣校東小学校の講堂に修善寺中学校仮教場の看板をかかげ生徒職員涙ながらの校歌を合唱し、授業再開の歩みをはじめたのであった。講堂のステージが職員室、雑庫は校長室、そしてベニヤで仕切った仮教室、誠に不便そのものであったが、尊い犠牲者となられた職員、生徒二九名の霊を慰め修善寺中学校復興の意気を示そうと、うって一丸の学校生活を展開、校内暴力、いじめなどある筈はなく翌春の高校入試は九九パーセントの合格率、特に野球部は県大会で優勝、感激ひとしおなるものがあった。
歳月は流れてはや三十年。おびただしい土砂や流木で埋めつくされた狩野川も、砂防・ダム・護岸等の工事を終わり放水路も立派に完成した。濁流にじゅうりんされた農耕地も改良復旧沃野となり、道路橋梁も拡幅舗装されその姿を一変した。最も悲惨を極めここに再び住めるであろうかと思われた地域にも工場店舗が立ち並び住宅がひしめいている。
被災から復興再建への道は必ずしも順調ではなかったが、地域住民の不屈の意志と努力を根源に国県等関係機関の甚大な尽力と援助により、そしてまた全国各地から寄せられた多くの人びとの温かい救援激励のおかげであることを心に銘じておかねばなるまい。災害の痛手は誠に深かったが、この不幸な体験と教訓がなければ今日みるような伊豆の飛躍的発展は期待せられなかったのかも知れない。
時は流れやがて狩野川台風の体験者も数少なくなるであろうし、当時の苦難も記憶から消滅することもあろう。しかし災害は忘れた頃に起ることを歴史は物語っている。再び同じ災害を繰り返すことのない対策と心構えを堅持し、次代に継承していくことが伊豆の語り部の責務ではなかろうか。稔りの田方平野を蛇行する狩野川は伊豆の母なる川である。現在伊豆は二十一世紀を展望しての多くの発展飛躍の構想が画かれつつある。再び狩野川の怒りを買わぬよう災害は常に人間の知恵を超越する天の配剤であることに思いをいたし開発進展を期するよう念願するものである。
私ども修善寺中学校流失当時の職員は、例年被災の日、九月二十六日相集い尊い犠牲者となられた山本教諭、遠藤用務員、生徒諸君の墓参を行いまた今はなき梅原校長の霊に黙祷を捧げその御冥福を祈ると共に、当時の苦難の学校運営の日々を回想しながらそれぞれの絆を結び続けている。この会の名は誰いうとなく「流れ会」と称していることを追記させていただく。
「志を鼓舞する」
その名に込められた願いは、
時の梅原元平校長先生の
深い想いから生まれた。
困難にくじけることなく、
力強く前へ進もうとする気概。
それこそが、
この像に託された魂である。
二体の像は、
人間の心の二面を
静かに語りかける。
遠く彼方を見つめる立像は、
揺るぎない希望の象徴。
俯き、下を向く像は、
恩師や友、家族を失った
深い悲しみを湛えている。
光と影、希望と哀しみ
相反するかに見える感情が、
ここでは一つの真実として
結ばれている。
昭和三十三年九月二十六日。
狩野川台風という
未曽有の試練が修中を襲った。
校舎は流され、尊い命が奪われた。
しかし、
その絶望の淵から立ち上がった
修中生たちにとって、この像は
単なる記念碑ではなかった。
「苦難を乗り越え、
団結して未来を切り拓く」
その不屈の決意を形にした、
魂の証であった。
生徒たちは朝夕、
この像を仰ぎ見た。
そこに自らの志を重ね、
新たな歩みを始めた。
学びに、部活動に、
そして人生に向かって。
地域の人々もまた、
この像に修中の誇りを見出し、
青春の象徴として心に刻んだ。
七十八年という歳月が流れ、
多くの卒業生がこの像の前を
通り過ぎていった。
それぞれの心に、
それぞれの思い出を残しながら。
今もなお、
志鼓の像は静かに佇み、
過ぎ去った日々と、
これから来る未来とを
見つめ続けている。
修善寺中学校の歴史とともに
歩んできた記念碑的存在として、
この像は語り継がれていくだろう。
困難を乗り越える勇気と、
仲間への深い愛情とを胸に秘めた、
修中生の心の故郷として。
伊豆箱根鉄道株式会社(本社:静岡県三島市、代表取締役社長:伍堂 文康)は、修善寺中学校閉校準備会(実行委員長:水谷 隆一)と共同し、修善寺駅の出発予告音を一部の時間帯のみ「伊豆市立修善寺中学校(住所:静岡県伊豆市、校長:宮崎克久通称:修中)」の校歌に変更いたします。
2025年4月に予定されている「伊豆市立伊豆中学校」の開校に伴い、2025年3月31日に同校は閉校となります。同駅は同校の最寄り駅であり、同駅開業(開業日:1924年8月1日)と旧修善寺町町制施行(町制施行日:1924年8月30日)が本年ともに100周年を迎える縁があります。
当社として、同校の校歌を出発予告音として使用することにより、同校の生徒および卒業生が同駅を利用する際に、母校や青春時代に思いを馳せていただければと思います。
2024年8月27日 伊豆箱根鉄道 ㈱ NEWS RELEASE